楽茶碗ってどうやって生まれたの?どこで作ってるの?どんな種類があるの? 今回は楽茶碗について、その特徴や分類を詳しく見ていきたいと思います。
Contents
- 1 楽茶碗とは何か?
- 2 楽茶碗の特徴
- 3 楽家の歴史
- 3.1 初代:長次郎(?-1589年)
- 3.2 二代:常慶(永禄4年(1561年)-寛永12年(1635年))
- 3.3 三代:道入(慶長4年(1599年)-明暦2年(1656年))
- 3.4 四代:一入(寛永17年(1640年)-元禄9年(1696年))
- 3.5 五代:宗入(寛文4年(1664年)-享保元年(1716年))
- 3.6 六代:左入(貞享2年(1685年)-元文4年(1739年))
- 3.7 七代:長入(正徳4年(1714年)-明和7年(1770年))
- 3.8 八代:得入(延享2年(1745年)-安永3年(1774年))
- 3.9 九代:了入(宝暦6年(1756年)-天保5年(1834年))
- 3.10 十代:旦入(寛政7年(1795年)-嘉永7年(1854年))
- 3.11 十一代:慶入(文化14年(1817年) – 明治35年(1902年))
- 3.12 十二代:弘入(安政4年(1857年) – 昭和7年(1932年))
- 4 著名な楽茶碗の作り手
- 5 楽茶碗一覧
楽茶碗とは何か?
楽茶碗とは楽焼(らくやき)で作られるお茶碗です。楽焼は、一般的な茶碗作りに使われるぐるぐる回す轆轤(ろくろ)を使用せずに自分の手と、篦(へら)だけを使って形を整える「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で形を整えます。その後、750度〜1,100度くらいで焼くことで完成します。
楽焼きの発端は1500年の半ば(天正の頃)に、千利休が瓦職人だった長次郎に「ちょっとこんな茶碗を作ってくれまいか」と相談/指導したことで生まれたようです。初めて茶人を前にしてお披露目したとき、楽茶碗は「いまやきちゃわん」といわれたようです。当時で言うところの現代アートにしてアバンギャルドな茶碗だったのは間違いないでしょう。ちなみに、楽焼きのルーツは中国時代の素三彩のようです。中国恐るべしでありますね。
その後、長次郎の子どもの代になって、豊臣秀吉から聚楽第からとった樂の印章を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となったのだとか。ちなみに、楽家から派生する楽焼を「脇窯」というようです。脇釜で有名なのは大樋焼きと玉水焼ですね。
楽茶碗の特徴
轆轤を使わず、手でこねこねしてつくる茶碗です。仕上げに篦でスパスパと形を整えることも。篦使いが顕著に見られるのは、9代了入以降。大きくは黒楽茶碗と赤楽茶碗にわかれ、焼成温度は黒楽茶碗が1000度、赤楽茶碗が800度程度となります。
カタチは、丸い半円のものがほとんどを占めます。いびつなカタチは長次郎が作った「ムキ栗」と、光悦が作成した茶碗くらい。デザイナーの楽家、アーティストの光悦といった視線で見ると、なるほどと思えてきます。
楽家の歴史
初代:長次郎が活躍した時代は1500年半ばの桃山時代。そこからなんと500年近い現在まで脈々と家系が受け継がれてきております。今回は12代までの楽家について簡単に紹介いたします。wikipediaを参考にさせていただきました。
初代:長次郎(?-1589年)
朝鮮人とされている文献が多いようです。元々は瓦屋さんを営んでいたようです。長次郎の茶碗は非常に希少価値が高く、また、判別するのが非常に難しいと言われており、骨董商泣かせと言われた時代もあったのだとか。
二代:常慶(永禄4年(1561年)-寛永12年(1635年))
田中宗慶(長次郎の補佐役と目される)の次男。大振りでゆがみのある茶碗がいくつか見られます。本阿弥光悦と交流があったようで、光悦は彼の作品から色々と学んだことも多かったのではないでしょうか。
三代:道入(慶長4年(1599年)-明暦2年(1656年))
常慶の長男にあたり、後に「吉左衛門」を名乗るようになります。ちなみに別名「ノンカウ」「ノンコウ」ともよばれ、箱書き等にその名前がよく出てきますね。初代や二代とは全く異なる楽茶碗の世界を切り開きました。 朱色、黄色など多数の釉薬を使用しており、兄貴分に当たるであろう本阿弥光悦からかなり影響を受けていたのではないでしょうか。
四代:一入(寛永17年(1640年)-元禄9年(1696年))
三代道入の息子にあたります。道入の「吉左衛門」を受け継ぎ、道入の技法から学びつつも初代長次郎に迫る作風を意識していたのではないでしょうか。
五代:宗入(寛文4年(1664年)-享保元年(1716年))
四代一入の婿養子です。28歳の時に「吉左衛門」襲名したそうです。作風は一入のそれとはかけ離れ、初代長次郎へと立返ったかのようです。表面がブツブツしているものが多いです。
六代:左入(貞享2年(1685年)-元文4年(1739年))
五代宗入の婿養子。楽家はなかなか男に恵まれないようです。「光悦写し」の茶碗でよく知られているほか、代表作「左入二百」も有名ですね。変幻自在に作風を帰られる技量を持っていたのでは。
七代:長入(正徳4年(1714年)-明和7年(1770年))
六代左入の長男です。著名な作品はほとんどないかもしれません。比較的早く隠居してしまう自由人でもあります。
八代:得入(延享2年(1745年)-安永3年(1774年))
七代長入の長男。病弱だったようで30歳で早世してしまいます。作品はほとんど出回っておらず。
九代:了入(宝暦6年(1756年)-天保5年(1834年))
七代長入の次男。「三代道入以来の名工」と大絶賛された方。篦の使い方が天才的で、巧みな造形に特徴があります。十代:旦入(寛政7年(1795年)-嘉永7年(1854年))
九代了入の次男。史実では表千家9代・了々斎と共に紀州徳川家につかえ、「偕楽園窯」の開設に貢献したようです。その後「西の丸お庭焼き」「湊御殿清寧軒窯」などの開設にも貢献した功績により文政9年(1826年)、徳川治宝より「樂」字を拝領。作風は極めて技巧的で、絢爛な意匠も取り入れるなど楽家の中では、作品の華やかさを最も意識したのではないでしょうか。十一代:慶入(文化14年(1817年) – 明治35年(1902年))
十代旦入の婿養子。明治維新が起こった後、茶道低迷期の中、楽家を継ぎました。なかなかに厳しい時代を過ごしたようです。作風はザ・楽茶碗と言えるものが多いのではないでしょうか。十二代:弘入(安政4年(1857年) – 昭和7年(1932年))
十一代慶入の長男。明治の初期に楽家を継ぎますが、慶入の時代から続く茶道衰退期のため、需要がほとんど無かったようで、若いときの作品は少ないです。しかし、明治に入り財閥が幅を利かせ始めると茶道ブームが訪れ、晩年は多数の作品を制作することに。人生の前半は辛酸をなめ、後半は優雅な晩年を送たようですね。
著名な楽茶碗の作り手
ここでは代表的な楽茶碗のつくり手を紹介したいと思います。
長次郎
初代長次郎は他の代の作品とは別格の存在として扱われることが多いです。色々と実権的に作った作品もたくさんありそうですが、総じて枯れっぷりの凄い茶碗ばかり。日本人は好みそうですが、海外の人から見たら薄汚い茶碗と言われてしまうかも。もっとも、アメリカが建国されるずっと前に使っていた茶碗ではあるのですけれども。名前がわかっている作り手としては、光悦と肩を並べるのではないでしょうか。
- 銘:
- 禿
- 所蔵:
- 不審庵蔵
道入(ノンコウ)
華やかなお茶碗が多いように思います。薄造りはノンコウからスタートしたといっても過言ではないでしょう。釉薬の使い方にも革新的な技法を切り開いた人物でもあります。楽家のなかでは「奇想天外な発明家」的な存在ではないでしょうか。
- 銘:
- 青山
- 所蔵:
- 樂美術館
本阿弥光悦
数多の国宝を生み出した、歴史上おそらくNo.1のスーパーアーティスト。白楽「不二山」は国宝になっております。道入とも親交が深く、道入の作風にも影響を与えたのでは。我が道を行く自由奔放さを発揮しつつ、全体として素晴らしく綺麗にまとまっている作品が多々あります。まぁ、実際に使うと、かなりのみにくい茶碗が多いのではありますが。
- 銘:
- 雪峯
- 所蔵:
- 畠山記念館蔵
楽茶碗一覧
出典
- wikipedia